向島日誌 : Mukae-jima diaries

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塩神さま 

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午前中、引き続き母屋の整備作業。

午後、ワークショップ中には残念ながらご都合があわず、
先延ばしになっていた、直島諸島の製塩の歴史についてのお話を本村にお住まいの
織田さんに伺うため、本村に渡る。

例えば「サラリーマン」という言葉の語源となったラテン語の「Salarium」が
「塩の」という意味を持つ様に、現在では商店に出向けば当たり前の様に並んでいる塩も、
近代化に伴う輸入インフラの確保や工業化による大量生産が確立されるまでは、
数々の為政者の統治の財源確保の物産品として囲い込みを受けていた事例が歴史上には散見される。
かっての瀬戸内もいわゆる十州塩田として知られる日本屈指の塩の産地だった。

本村の北東部、水路と石垣で廻りを囲まれ、いまや人知れず広がる湿地帯はかっての
直島諸島の主要産業の一つだった御恵浜塩田址だ。

昭和の中程に大規模需要に応えるためのイオン交換膜製塩法が開発されるまでは、
ここ直島諸島にも、入浜式の塩田(干満差を利用する製法)、枝条架式、流下式の塩田が存在した。

これらの塩田の風景は、専売法撤廃により急速に姿を消した事、
岡山の宇野港近辺の典型的なロードサイドの風景が広がる平坦な地域も、かっては
そのほとんどが塩田の風景であったそうである。
昭和にあっては、焼玉エンジンを搭載したポンポン船(ウワニブネ)で出来上がった
塩を高松に搬送していた事、釜屋と呼ばれる塩炊き釜の煙突ののある製塩施設があった事、等を知る。
(ご教授、誠に有り難うございました。)

ご教授頂いた、塩田の隅にあった塩釜神社のお社を見学しにNX125を走らせる。
現在では塩神さまのご神体は既になく、他所で保管されているとの事。
時間が流れたのだな、と思う。(實藤)
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ベンチを置く 

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ワークショップもフィナーレの秋祭り見学で無事終了。
あまりに、ああいいなぁとか、素晴らしいなぁ、という光景を目の当たりに
した時のことを言語化するのはとても難しい。

願わくば、今回はカメラマンに徹してとった写真が、その一端でも
伝えてくれていれば、と願うばかりです。

どうもこの辺りから、ブログ更新のつっかえが始まっていたようで、
もろもろの整備の後の隠岐諸島への旅を含めてぼちぼちアップしていきます。
(島探索もiphoneで出来るだけためない様にタイムリーにアップしたかったのですが、
 残念ながら島のキャンプ場はもれなく圏外)

2006年に制作されたベンチはすっかり色あせて畑の片隅に置かれているが、
日当りが良いらしく筒井さんちの猫のお気に入り。

夏にバーベキューをした、波戸に小さいベンチをおいて腰掛けてみる。
少しだけ、風景が変わる。(實藤)

おおまつり 

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堺谷家 

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前日に引き続き、雨模様。

午前、高松から高嶋さんと古河さんが参加。

まぁ、折角だからと、皆でカッパを着込み、等高線地図を片手に
「石舞台」と名付けた山頂のウバベガシの木立へ山道を歩く。

雨が激しくなってきたため、早々に母屋に帰投。
採取してきた植物を原色日本植物図鑑と照らし合わせ、昼食。

高嶋さんはいつも豪勢なおかずを持参で参加してくれるので、食卓が一気に華やぐ。

午後、海を渡り、本村は堺谷さんのお宅へ伺う。
堺谷家は初代九郎兵衛氏から、当代で10代目を迎えられ、
現在も本村の中程に豪壮なお屋敷を構えておられる直島のご名家である。
(この度は、誠に有り難うございました。)

江戸時代には、大阪は道頓堀にて廻船問屋を営まれ、その屋号は「堺屋」。
天保年間には、千石船「隆徳丸」、「順進丸」、「天王丸」、「盛大丸」等で、
なんと北海道まで航行されていた、とのことで天保4年に塩飽の大工衆によって造営された
建家には、当時の物流業の繁栄を忍ばせる品々がところ狭しと大切に保管されている。

ご多幸なお顔立ちの奥様に、(一番下の画像は若かりし日の奥様)キリシタン灯籠や、
当時の通行証、取引先であった野辺地や、函館近辺が拡大記載された当時の地図をご解説頂く。
(この地図は船乗り用とあって北海道が細長く描かれた貴重な地図)

「イシカル川って、ほら、北海道の地名はアイヌ語から来ているでしょ。」とのさりげない言葉に、
フィールドワークの手法を学ぶ目的で参加した、美術史家の伊藤俊治先生と冒険家の石川直樹さんによる
秋吉台のワークショップで知った、山口県の沖家室島がハワイ移民を多く輩出した過去など、
海民と云われた人々の行動範囲のスケールの大きさを思い出す。


伊藤先生による「アーキペラゴ/海と島と山を渡る」にはこうある。

「群島的認識は無数の視線の集合運動や海に溶け込んでいく瞬間的な存在や中心を持たない
 多重なネットワークといった特性を意味していた。
 そして実はこうした世界観こそが日本群島の住民の特質であったはずなのだ。
 日本人にとって山は島であり、島は山であり、海も陸も反転しうるものである。
 
 日本人は身体や記憶が深い部位で群島的認識にとどまっているのに、
 表層の意識や精神はほとんど大陸的な世界観におおいつくされてしまっている。
 そうした一種のダブルバインド状況のなかで複雑に屈折し、分裂してきたのが日本人だった。
 しかし日本人はいまもなお群島的認識にしっかり支えられているのではないだろうか。
 そしてもしそうであるならば、いかにしてそうした認識に再びたどりつくことができるのだろうか。」

夜、写真家の藤井さんに再訪問頂く。(實藤)

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